top of page

春夏振り返り② 恩師たちと若者たちと

更新日:8月28日

8月の初めには、高校から大学学部卒業まで7年間お世話になった三上明子先生の追悼コンサートで演奏をして参りました。


3年前に突然逝去された先生を偲ぶ演奏会で、各大学で先生の薫陶を受けた生徒たち約90名が全国から集まり先生との思い出を分かち合いました。

先生がいないことが未だに信じられず、いつもの朗らかな笑顔とお声で颯爽と現れそうで。今でも、先生ならどんな風に仰るかなと思いながら演奏をしています。


同じ門下生の先輩や後輩に囲まれてあっという間に当時の自分に戻り、こんなに素敵な先輩後輩に囲まれて学べていたことを改めて誇りに思いました。何といってもみなさん人柄が素晴らしくて、それも三上先生から受け継がれたものなのだろうな。


思い返せば先生は、音楽を職業にすることというより、音楽を職業以上の生涯の友にするためにご指導くださっていたように思います。

先輩後輩たちの音楽は人柄そのもので、どの音楽も唯一無二の輝きを放っていました。ご一緒させていただけて光栄でした。


*****


翌週には、フランス時代の恩師ミッシェル・モラゲス先生に今年も会いに浜松に。今回は大学の生徒がマスタークラスを受講させていただいたので、殊更に胸がいっぱいでした。

相変わらず愛に溢れたレッスンで、曲の解釈やアナリーゼとそれを伝える語彙や導きの的確さには、毎度のことながら驚かされます。私もまた習いたいなあ。


それにしてもフランス語は本当に論理的な言語だなと、久しぶりにフランス語に浸って実感しました。

曖昧で多義的な語彙がなく、留学から帰国後、日本語を話すのも頭がクリアになり楽になった感覚がありました。一方で日本語に独特の詩的な美しさも発見したり。

フランス音楽というと曖昧に漂うような音楽をイメージするかもしれませんが、結果としてそう聴こえるだけで、創作の過程ではむしろ厳密なロジックがあり、それに支えられてフランス風の美的感覚が立ち現れたもの、と言ったらいいのかな。


今ではすっかりアバウトな日本語(とブロークンな英語)を話すことに慣れきってしまっているので、フランス語の論理的思考を強化したいです。

忘れかけているフランス語、次にお会いした時にはもっと流暢に話せるようにリハビリしないと。先生いつまでもお元気でいてくださいね。


*****


その翌週には、静岡県学生音楽コンクール本選会にて審査をさせていただきました。

学生時代に夏を捧げていたこのコンクールに審査員として関わらせていただいてから10年。今年はいつにない接戦で、入賞者の誰が一位でもおかしくないほどのレベルの高い演奏を聴かせていただきました。

月初めには勤務校の実技試験もあり、高得点を狙いにくいモーツァルトやバッハをあえて選び、誠実に音楽に向き合おうとする生徒たちの姿が美しかったです。


楽譜に書かれていることを表現する技術的完成度の高さは年々目を見張るほど上がっていて、私が学生の時にはこんなに吹けなかったなと本当に尊敬します。

他方、楽譜に書かれていないことは何なのだろうと音楽を読み取る力や、自分の中のエゴをどこまで消滅・昇華されられているか、メタ視点からの構成力などが高まることなどにも期待したいなとも感じます。


もうこの世にはいないことがほとんどの作曲家の曲を演奏する私たちクラシック演奏家は、作曲家が見た世界はどのようなものだったのだろう、自分は何を代弁できるのだろう、という渇望にも似た問いかけを繰り返す営みこそが演奏なのではないかと私は考えています。

そうした答えのない問いを長きに渡りし続ける過程で自己を知り、世界を知っていく。性急に答えを求めることなく、作曲家と、自分と、世界と、対話し探究し続ける時間が必要なのではないかと思います。


折りしも最近見た映画『教皇選挙』の中で、「何よりも罪深いのは「確信」である…もし確信だけあって疑いがなければ、神秘も存在しない。それでは信仰の必要もない。」という言葉があり、音楽や芸術もこのとおりだなと膝を打ちました。

(『教皇選挙』本当に良かったです。ストーリーも映像美にも圧倒されました!)


若者がつまづいても失敗しても迷っても、すぐに答えを求めたり差し出したりするのではなく、問いや疑いを持ち続けることを尊重してあげられるような姿勢が求められるのだな、と、恩師たちと自分を比べてみて反省したり。


自分自身も、答えを出さなければならない仕事に追われていると、答えのないものにも無理やり解を求めてしまいがちになりそうで、終わりなき音楽の旅をする時間の貴重さが身に沁みます。

恩師たちのような音楽に一歩でも近づけるよう、今日も音作りからこつこつと始めていきます。


bottom of page