このたび、といっても3月のことで、タイミングを逃したままになっていましたが…推薦をいただき、静岡市市長顕彰を受賞する名誉にあずかりました。
授与式は中止になってしまったのですが、担当課から略式で授与式をしていただきました。
短い歓談のなかで話はカンボジアの活動に及び、教育の動機や現状をお話ししたところ、職員のお一人が「『夜と霧』を思い出した。悲惨な状況の時こそ、人の心に音楽や芸術が必要なことがよくわかる。感動した。」と仰ってくださいました。
自粛生活でできた時間で、未読の本たちを読み始めようと、いやその前に、夜と霧を再読しなければとページをめくると、強制収容所と比べてはいけないけれど、これはまさに今の世界の状況なのではと思うところもあり、その中で強く心に残ったのが以下の文章でした。
「元来精神的に高い生活をしていた感じやすい人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘らず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には経験しなかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。」
内的世界の豊かさがいかに大切であるか。内的世界を深く広げるために、精神性を高めるために、何が必要なのか。 いまの状況に立ち返ると感じるのが、芸術文化を娯楽と見做されてしまうことへの違和感。どうして古代人は音楽を宇宙論として捉えたのか。どうして中世の自由七科のなかに音楽が入っているのか。 音楽とは何か、芸術とは何か、そして芸術文化を抹殺した国がどういう道を辿ったのかは、歴史が教えてくれている。
外の世界は狭くなり、外へと表現できる機会はなくなってしまった。でも、内的世界はどこまでも広くて自由だ。勉強して練習して、精神の修養をして、不安を動機にせず、愛を動機に行動できる人間でいられますように。
