top of page
検索

カンボジア②

更新日:2024年7月26日

カンボジア滞在からもう4ヶ月が経ってしまいましたが、この連日の暑さがカンボジアの記憶を色濃く蘇らせています。

そして、感情的には大分整理がついた今、前回()に続き、今回は音楽と演奏のことを綴って行きたいと思います。


今回のカンボジアでの演奏は、田舎の学校5ヶ所、首都プノンペンの学校、孤児院2ヶ所、スラム街の教育センター、スラム街支援団体本拠地、パーティー演奏、ディナーコンサート、チャリティコンサートの全11ヶ所、計17回。


暑い国ゆえの緩さというか、きっちりと決められたスケジュールで動いていたわけでは全くなく、急に演奏を頼まれたり、時間や場所が直前に変更になったりもしたけれど、そんなフレキシブルに動く感じもこの国では心地よくて。


今まで一つの系列の学校でしか演奏していなかったので、演奏しながら他の土地やコミュニティの様子も見て回れたことも大きな収穫でした。特に田舎やスラム街は現地NGOのアテンドのお陰でコミュニティにしっかりと入ることができました。


*****


カンボジアの音楽は、伝統音楽でも歌謡曲でもそのほぼ全てがいわゆるヨナ抜き音階と言われる五音音階でできています。

今どきの音楽も五音音階が好まれているという現象が面白いなと思います。専門的な話は省きますが、それだけ近代化されていない、自然に近いところで人々が生きているのだろうなと思っていましたが、今回田舎の民家に泊まってそれが確信に変わりました。


そして、私がカンボジアで演奏するときにも、彼らに馴染み深い五音音階の曲は必ず入れるようにしています。また、今回は現地の伝統楽器に近い横笛も持って行って聴いてもらいました。


これまで海外で演奏するたびに、そこに積み重ねられた「土地の記憶」のようなものを場所からも人からも感じてくるのですが、カンボジアでは、悲しいことにどこに行ってもそれがほとんど感じられませんでした。

歴史を知っている先入観がそう思わせたのかもしれませんし、行動範囲が狭かったのかもしれません。アンコールワットの辺りならまた違ったものを受け取れたのかもしれないですが、何というか、記憶を失くした・塗り替えられた、というような「無」を強く感じました。


もしかしたらどこかに残っているかもしれない土地の記憶を知ることができたら、と、カンボジアの伝統音楽のリサーチをしたくなったりも。

でもその「無」は、良く捉えればこれから何にでもなれるという無限の可能性でもある。そのことは、初めて聴く音楽や演奏に瞬き一つぜず口を開けて見つめる子どもたちから強く感じたことでした。


彼らは音符も読めないしドレミも知らない。でも音楽の根源は知っている。リズムもハーモニーもメロディーも、音楽のすべてが自然から来ていることを、自然とともに生活をしている彼らなら知っている、感じている。


ドレミを知っている、楽譜も読める私たちだけど、「音楽は自然から来たんだよ」と言える音楽の先生はどれだけいるのだろうか。

ドレミを知らないけれども音楽の本質をわかっている彼らと、私たちと、果たして一体どちらの方が豊かな音楽体験をするのだろう。

そんなことをカンボジアに行くたびに思います。


bottom of page